なぜ今、研修転移が問われているのか
多くの企業が研修に投資しています。厚生労働省の令和6年度「能力開発基本調査」によると、教育訓練費用を支出した企業は54.9%、OFF-JT(通常の業務を離れて行う教育訓練)を受講した労働者は37.0%、正社員に計画的なOJTを実施した事業所は61.1%にのぼります。一方で、企業がOFF-JTに支出した費用は労働者一人当たり平均1.5万円という水準にとどまり、限られた投資をいかに成果へ結びつけるかが問われています。研修そのものは活発に行われているにもかかわらず、「学んだはずのことが、現場で使われていない」という悩みは後を絶ちません。
この「学びが現場で活きるかどうか」を捉える概念が、研修転移(transfer of training)です。研修転移とは、研修で学んだ知識やスキルが、実際の仕事の現場で一般化されて活用され、その効果が持続することを指します。この考え方を日本に広めたのは、立教大学の中原淳氏らによる著書『研修開発入門「研修転移」の理論と実践』(ダイヤモンド社)です。しかし現実は厳しく、古くはジョージェンソンが1982年に「研修で学んだことのうち、多く見積もっても職場で活用されるのは10%程度にとどまる」と指摘したように、学びの大半は現場に転移せず失われがちだと言われてきました。つまり、研修を実施すること自体よりも、その学びをいかに現場に定着させるかが、投資の成否を分けるのです。
研修の学びが現場で活きない3つの壁
なぜ、せっかくの学びは現場に転移しないのでしょうか。研修転移を左右する要因については、ボールドウィンとフォードが1988年に提唱した転移モデルが最もよく知られています。このモデルは、転移が「訓練設計」「学習者特性」「職場環境」という三つの要素の相互作用によって決まると整理しました。この枠組みに沿って、転移を阻む代表的な壁を見ていきましょう。
壁1:研修と現場が切り離されている(訓練設計の壁)
一つ目は、研修の内容や進め方が現場の実務と結びついていないという壁です。ボールドウィンとフォードのモデルでいう「訓練設計」の問題にあたります。抽象的な知識を一方的に伝えるだけで、自分の仕事にどう当てはめるかを考える機会がなければ、学びは研修室の中で完結してしまいます。学んだ内容が現場の具体的な場面と結びついていないと、受講者は「良い話だったが、うちの仕事とは違う」と感じ、転移は起こりません。
壁2:受講者が「自分ごと」になっていない(学習者特性の壁)
二つ目は、受講者側の動機や当事者意識に関わる壁です。モデルでいう「学習者特性」にあたります。なぜこの研修を受けるのか、学んだことを現場でどう使うのかという目的意識が薄いまま参加すると、学びは深まりません。上司から「行ってこい」と言われただけで、本人の課題意識と結びついていない研修は、受講後の行動変容につながりにくいのです。学ぶ前の段階で、本人が研修の意義を理解し、活用の意思を持っているかどうかが転移を大きく左右します。
壁3:現場に戻ると実践できない(職場環境の壁)
三つ目は、研修後に戻る職場の環境です。モデルの「職場環境」にあたり、転移を最も左右する要素だとも指摘されます。学んだことを試そうとしても、上司の関心が薄く、実践する機会も余裕もなければ、行動は元に戻ってしまいます。中原氏らは、研修を「やりっぱなし」にし、現場が学びを支援しない状態を、人事と現場の『共犯関係』とすら表現しています。どれほど優れた研修でも、それを歓迎し実践を後押しする職場がなければ、学びは定着しません。
学びを現場に定着させる5ステップ
研修転移は、研修当日だけでなく、研修前・研修中・研修後の一連の流れ全体で設計する必要があります。特に、上司の支援と実践機会の設計が鍵を握ります。ここでは、時間軸に沿って現場で実践できる5つのステップに分け、各ステップに実施チェックを添えます。
ステップ1:【研修前】目的と現場の課題を接続する
転移は研修が始まる前から始まっています。受講者が「なぜ学ぶのか」「学んだことをどの業務で使うのか」を事前に明確にすることが出発点です。研修案内に目的や期待される行動を具体的に記し、可能であれば上司と受講者が事前に対話して、本人の現場課題と研修テーマを結びつけておきましょう。学ぶ前に活用の場面がイメージできていると、受講中の学びの質が大きく変わります。
- 実施チェック:受講者が、研修で学ぶ内容を自分のどの業務・課題に使うかを事前に言語化できている。
- 実施チェック:上司と受講者が、受講前に研修の目的と期待を共有する対話の機会を持っている。
ステップ2:【研修中】現場での活用を前提に設計する
研修そのものは、現場での実践を前提に組み立てます。抽象的な知識で終わらせず、自社の事例や受講者自身の課題を題材にした演習を取り入れ、「明日から何をどう変えるか」を具体化する時間を設けましょう。研修の終わりに、学びを踏まえた行動計画(アクションプラン)を本人の言葉で作成させることが効果的です。学んだ内容を自分の仕事に翻訳する作業を研修内で終えておくことで、現場への転移が起こりやすくなります。
- 実施チェック:研修内に、自社の事例や受講者自身の課題を扱う演習・討議が含まれている。
- 実施チェック:研修の締めくくりに、受講者が具体的な行動計画を自分の言葉で作成している。
ステップ3:【研修後】実践する機会を意図的に設計する
学びが定着するかどうかは、研修後に実践する機会があるかにかかっています。研修が終わって通常業務に戻るだけでは、学びはすぐに薄れてしまいます。学んだスキルを使う具体的な業務やプロジェクトを割り当てる、研修とテーマが直結する課題に取り組ませるなど、実践の場を意図的に用意しましょう。使う機会があってはじめて、知識はスキルとして身についていきます。
- 実施チェック:受講者が研修で学んだスキルを実際に使う業務・場面を、受講後に具体的に割り当てている。
- 実施チェック:学びを一定期間空けて振り返る(間隔をあけた学習・リマインド)仕組みを設けている。
ステップ4:上司が学びの実践を支援する
研修転移を促す要素の中でも、上司の関与は特に重要だとされます。受講者が学びを試そうとしたとき、上司がそれに関心を示し、実践を後押しするかどうかが定着を左右します。受講後の1on1で「研修で何を学び、どう活かすか」を確認する、実践への挑戦を歓迎する、失敗を責めずに改善を一緒に考える、といった関わりが有効です。上司が無関心であれば、部下の学びは職場の日常に押し流されてしまいます。
- 実施チェック:上司が受講後に、学んだ内容と実践の状況を確認する対話の場(1on1等)を設けている。
- 実施チェック:上司が、学びを試す挑戦を歓迎し、うまくいかない点を一緒に改善する姿勢を示している。
ステップ5:転移の状況を確認し、支援を続ける
最後に、学びが現場でどう活かされているかを継続的に確認し、支援を続けます。研修後、一定期間を空けて行動の変化を振り返る機会を設け、うまくいっている点と詰まっている点を把握しましょう。ここで重要なのは、満足度や理解度だけを問うのではなく、「現場での行動がどう変わったか」に目を向けることです。転移の状況を見える化し、必要な後押しを続けることで、一過性の学びを持続的な行動変容へと育てることができます。
- 実施チェック:研修後一定期間を空けて、受講者の行動変化を振り返る機会を設けている。
- 実施チェック:満足度や理解度ではなく「現場での行動がどう変わったか」を確認の中心に据えている。
よくある誤解:研修は「実施して終わり」ではない
研修をめぐるよくある誤解は、「良い研修を実施すれば、あとは受講者が現場で活かしてくれるはずだ」という思い込みです。ボールドウィンとフォードのモデルが示すように、転移は訓練設計・学習者特性・職場環境の相互作用で決まります。研修当日の質を高めるだけでは足りず、研修前の動機づけと、研修後の職場での実践支援があってはじめて学びは定着します。研修転移は、研修担当者だけでなく、受講者本人と現場の上司が一体となって取り組むべきテーマなのです。研修を「点」のイベントで終わらせず、前後を含めた「線」の取り組みとして設計することが、投資を成果に変える分かれ道になります。
まとめ
研修転移とは、研修で学んだことが現場で活用され、その効果が持続することを指します。ボールドウィンとフォードの1988年のモデルは、転移が訓練設計・学習者特性・職場環境という三つの要素で決まることを示しました。日本でも中原淳氏らの研究を通じてこの重要性が広く認識されています。学びが現場で活きないのは、研修と現場の断絶、受講者の当事者意識の欠如、そして実践を支えない職場環境という三つの壁があるからです。
これらの壁を越えるには、研修前に目的と現場課題を接続し、研修中は活用を前提に設計し、研修後に実践機会を用意し、上司が実践を支援し、転移の状況を継続的に確認するという5つのステップが有効です。研修を「実施して終わり」にせず、前後を含めた一連の流れとして設計すること。それが、限られた育成投資を確かな成果へと変える最も現実的な道筋です。
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Editor’s Note
本記事は WONDERFUL GROWTH 編集部が、現場の人事・経営者の方々への取材と 自社支援データを元に作成しています。
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