〜2026年開示義務化で評価される人材戦略再設計の5ステップ〜
想定読者:人事責任者・経営層/カテゴリ:人事戦略・人的資本/公開予定:2026年5月以降
はじめに:なぜ今、「人的資本経営の誤解」を整理する必要があるのか
2026年3月期の有価証券報告書から、人的資本開示は新たなステージに入りました。2026年2月20日に施行された「企業内容等の開示に関する内閣府令」の改正により、経営戦略と関連付けた人材戦略、従業員給与等の決定方針、平均年間給与の対前事業年度増減率の記載が新たに義務化されています。同年3月23日には、内閣官房・金融庁・経済産業省により「人的資本可視化指針(改訂版)」が公表され、指針の方向性も「指標重視」から「経営戦略との連動」へと明確に転換されました。
しかし、開示制度が整っても、人的資本経営そのものが進化しているとは限りません。経済産業省・人的資本経営コンソーシアムが2024年6月に公表した調査によれば、約9割の企業が人事データを保有している一方で、データを分析・活用できているのは約4割にとどまっています。また、厚生労働省「平成30年版 労働経済の分析」が示すとおり、日本企業の能力開発費の対GDP比は0.1パーセントと、米国の2.08パーセントの約20分の1という水準が長らく続いています。
本記事では、「人的資本経営を理解しているつもりで、実は誤解している」状態に陥っている企業に共通する7つの落とし穴を、公的調査をもとに整理いたします。そのうえで、2026年改訂の指針に沿って評価される、人材戦略の再設計5ステップをご提案いたします。人事責任者および経営層の意思決定の一助となれば幸甚です。
第1章 人的資本経営を「誤解している」状態に共通する7つの落とし穴
パターン1 「指標を出すこと」自体が目的化している
2026年3月公表の「人的資本可視化指針(改訂版)」は、これまでの「網羅的な指標開示」から、「経営戦略と人材戦略の連動を中心に、必要な指標を選択的に示す」方向へと舵を切りました。背景には、開示量は増えたものの、投資家にとって「経営判断との接続」が見えにくいという課題があります。
現場では、他社が開示しているKPIをそのまま並べる「比較横並び型」の運用がいまだに散見されます。指標は手段であり、目的ではありません。
実施チェック
- 開示している各KPIは、自社の経営戦略のどの打ち手と紐づいているか、社内で言語化されているか。
- KPIごとに、達成度と経営インパクトの両方を一言で説明できる状態になっているか。
パターン2 経営戦略と人材戦略が「並列文書」として存在している
経済産業省「人材版伊藤レポート2.0」(2022年5月)が示す「3つの視点(Perspectives)」の第1は、「経営戦略と人材戦略の連動」です。視点としては広く知られているにもかかわらず、実態では「中期経営計画」と「人事計画」が別の資料として並列に存在し、両者の論理的接続が言語化されていない企業が少なくありません。
実施チェック
- 中期経営計画の主要施策(新規事業、海外展開、DX推進など)ごとに、必要な人材像・人員数・育成期間が定量化されているか。
- 人材戦略を更新する際、経営戦略の改訂タイミングと連動する運用ルールが定まっているか。
パターン3 As is-To beのギャップが定量化されていない
3つの視点の第2は、「As is-To beギャップの定量把握」です。理想像(To be)と現状(As is)の差分を数値で示せていない企業は、投資配分の優先順位を決められず、結果として人事施策が「全方位への薄まき」になります。
実施チェック
- 3年後・5年後の事業ポートフォリオから逆算した、職種別・スキル別の人員ギャップ表が存在するか。
- 各ギャップを埋める手段(採用、育成、配置転換、外部活用)の選択基準が明文化されているか。
パターン4 人事データを「保有」しているが「意思決定」に使っていない
経済産業省・人的資本経営コンソーシアムの2024年6月調査では、約9割の企業が人事データを保有しながら、データを分析・活用できているのは約4割にとどまっています。タレントマネジメントシステムを導入しても、ダッシュボードを開く頻度が「経営会議の直前だけ」という運用は珍しくありません。
実施チェック
- 月次の経営会議資料に、最低1指標は「人事データから導出した示唆」が含まれているか。
- 主要KPI(離職率、エンゲージメント、配置最適度など)の数値変化に対し、原因分析と対応策が時系列で記録されているか。
パターン5 人材ポートフォリオが「動的」になっていない
人材版伊藤レポート2.0が示す「5つの共通要素(Common Factors)」の第1は、「動的な人材ポートフォリオ、個人・組織の活性化」です。「動的」とは、事業環境の変化に応じて構成を組み替え続けることを意味します。固定的な職能等級と硬直的な配置で運用されている企業では、事業転換のたびに新規採用に偏り、結果として採用コストが膨らみがちです。
実施チェック
- 過去3年で、社内異動による主要ポジション充足率は何パーセントか。
- 配置転換に伴う再教育プログラムが整備されており、当事者のキャリア展望と整合しているか。
パターン6 リスキリング投資が「掛け声」で終わっている
厚生労働省「平成30年版 労働経済の分析」によれば、企業の能力開発費の対GDP比は、米国2.08パーセント、フランス1.78パーセントに対し、日本は0.1パーセントです。約10倍から20倍の開きがあります。リスキリングが経営アジェンダに掲げられても、予算配分の実数が伴っていない実態を示すデータです。
実施チェック
- 一人当たり研修投資額(OFF-JT、自己啓発支援を含む)が、過去3年で増加しているか。
- 投資先のスキル領域が、経営戦略の優先事項と整合しているか。
パターン7 開示と内部運用が乖離している
有価証券報告書では理想的な人材戦略が描かれているにもかかわらず、社内では同じメッセージが共有されていない、という乖離が起きると、「企業文化への定着」(3つの視点の第3)は進みません。投資家にも従業員にも、いずれは見抜かれます。
実施チェック
- 開示資料に記載された人材戦略を、現場の管理職が自分の言葉で説明できる状態か。
- 経営トップの社内メッセージと、開示メッセージのトーン・主張が一致しているか。
第2章 開示で評価される人材戦略の再設計5ステップ
ここからは、前章で挙げた落とし穴を回避し、2026年改訂指針に沿って評価される再設計の手順を、5つのステップに整理してご提案いたします。
Step 1 パーパスと経営戦略との接続を言語化する
最初に手をつけるべきは、KPI整備ではなく、「自社のパーパス(存在意義)と経営戦略から、人材戦略をどのように導いたか」の論理を一枚紙で言語化することです。ここが揺らぐと、その後のすべての施策が「他社追随」になります。経営層と人事責任者が同じ紙面上で同じ表現に合意できるかを、最初の到達点とすることをお勧めいたします。
Step 2 As is-To beのKPIを職種別・スキル別に定義する
全社一律の指標ではなく、事業ポートフォリオに直結する単位で、定量ギャップを把握します。ギャップが小さい領域には維持施策を、大きい領域には集中投資を割り当てるという配分方針が、初めて成り立ちます。ここで重要なのは、ギャップの絶対値ではなく、「経営判断に影響する閾値」をあらかじめ合意しておくことです。
Step 3 人事データを意思決定に「組み込む」運用を設計する
ダッシュボードの整備よりも先に、「どの意思決定」に「どのデータ」を使うかを決めます。例として、配置判断にはスキルアセスメント結果、離職リスク対応には1on1の蓄積データ、評価制度の改定にはエンゲージメント調査の経年推移を充てる、という対応表を作成し、月次の運用ルーティンに組み込みます。データ活用は「ツール導入」ではなく、「意思決定プロセスの設計」によってのみ定着いたします。
Step 4 投資配分(特にリスキリング)を実額で示す
2026年開示拡充では、給与・人件費の決定方針、および平均年間給与の対前事業年度増減率の開示が義務付けられました。このタイミングで、給与だけでなく、能力開発費・リスキリング投資の実額と内訳を社内向けにも社外向けにも明示することで、メッセージの真実性が増します。投資の総量と配分の根拠が、開示資料・経営会議・現場説明のすべてで一致している状態を目指します。
Step 5 経営トップが社内外に語り、開示と運用の整合を取る
最後の仕上げは、経営トップが社内のあらゆる機会で人材戦略を自らの言葉で語ることです。日経人財グロース&コンサルティング「人的資本経営調査25年度版」によれば、CHRO設置率は35パーセントにとどまる一方、経営トップが人材戦略を自ら発信している企業は9割近くに達しています。発信そのものは進んでいる以上、これからの競争領域は「発信内容と現場運用が同じか」に移っていきます。開示と社内発信の整合を取り続けるための、ガバナンス体制まで含めて設計することが望ましい状態です。
おわりに 人的資本経営は「開示制度の改正」では完成しない
人的資本経営は、開示制度の改正で完成するものではなく、経営戦略と人材戦略を不断に接続し直す「経営の作法」そのものです。2026年の指針改訂は、その作法を真摯に磨き込んできた企業を、市場が見極めやすくする転換点になります。
逆に言えば、KPIを並べただけの開示や、現場運用と乖離した美しい人材戦略文書は、これまで以上に見抜かれやすくなる時代に入りました。本記事の7つの落とし穴と5ステップが、自社の現在地を再点検する際の鏡として、お役に立てば幸いです。
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参考文献・引用元
経済産業省「人材版伊藤レポート2.0」(2022年5月)
経済産業省・人的資本経営コンソーシアム「人的資本経営に関する調査結果(概要・詳細)」(2024年6月20日)
経済産業省・人的資本経営コンソーシアム「人的資本経営の現状・課題とトップランナーたちの取組」(2024年12月)
内閣官房・金融庁・経済産業省「人的資本可視化指針(改訂版)」(2026年3月23日公表)
金融庁「企業内容等の開示に関する内閣府令」改正(2026年2月20日施行、2026年3月期有価証券報告書から適用)
厚生労働省「平成30年版 労働経済の分析」(GDPに占める企業の能力開発費の国際比較)
日経人財グロース&コンサルティング「人的資本経営調査25年度版」
(本稿は2026年5月23日時点の公表情報をもとに作成しております)
Editor’s Note
本記事は WONDERFUL GROWTH 編集部が、現場の人事・経営者の方々への取材と 自社支援データを元に作成しています。
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