変化の速い現代の経営環境において、企業の競争力を左右する最大の要素は「人」への投資です。デジタル化と生成AIの急速な普及、人手不足の深刻化、そして人的資本経営への関心の高まりにより、社員一人ひとりへの投資を経営戦略の中心に据える企業が増えています。
一方で、日本企業の人材投資は国際的に見て依然として低い水準にあります。厚生労働省「平成30年版 労働経済の分析」によると、企業の能力開発費(OFF-JT)の対GDP比は、2010〜2014年の平均で米国が2.08%、フランスが1.78%であるのに対し、日本は0.10%にとどまり、経年的にも低下傾向が指摘されてきました。この差は、長期的な労働生産性の格差につながりかねない課題として、政府も繰り返し問題提起しています。
GDPに占める企業の能力開発費の割合が、国際的にみて突出して低い水準にとどまっており、経年的にも低下が続いていることを踏まえると、我が国の労働者の人的資本が十分に蓄積されず、ひいては長期的にみて労働生産性の向上を阻害する要因となる懸念がある。(厚生労働省「平成30年版 労働経済の分析」)
こうした流れを受け、人への投資は「コスト」から「価値創造の源泉」へと位置づけが変わりました。2023年3月期からは有価証券報告書における人的資本情報の開示が義務化され、2026年3月期以降は、経営戦略と関連付けた人材戦略や平均年間給与の前年度比増減率など、開示項目がさらに拡充されます(内閣官房・金融庁・経済産業省)。投資家や求職者が企業の人材戦略を厳しく見る時代になったのです。
生成AI時代に対応するデジタル・AIスキル教育プログラム
生成AIでスキルの中身が変わり、DX人材が足りない
生成AIの実用化により、求められるスキルの中身が急速に変化しています。世界経済フォーラム(WEF)「仕事の未来レポート2025」は、2025年から2030年にかけて世界で現在の総雇用の約14%に相当する新たな雇用が生まれると予測し、増加率の高い職種の上位にはビッグデータやAI・機械学習などの技術関連職が並ぶとしています。
しかし日本では人材の確保が追いついていません。独立行政法人情報処理推進機構(IPA)「DX動向2025」によると、DXに取り組む日本企業の85.1%が、DXを推進する人材の「量」が不足していると回答しており、米国・ドイツと比べて著しく高い水準にあります。経済産業省とIPAは、「デジタルスキル標準」に生成AIに関する内容を加える改訂を2023年8月(ver.1.1)と2024年7月(ver.1.2)に行い、2026年4月にはAIトランスフォーメーションの進展を踏まえたver.2.0を公表しました。スキルを起点に人材を育てる「スキルベースの人材育成」への転換が求められています。
政府も後押しを強めています。2022年10月に表明された「5年で1兆円」のリスキリング支援を背景に、経済産業省の「リスキリングを通じたキャリアアップ支援事業」では、対象講座の受講費用の2分の1(上限40万円)が補助され、転職に成功し1年間継続して就業した場合は受講費用の5分の1(上限16万円)が追加で補助されます。ただし、この事業は在職者の転職を伴うキャリアアップを支える制度です。企業が社員に職業訓練を行う場合は、厚生労働省の「人材開発支援助成金」で訓練経費や訓練期間中の賃金の一部が助成されます。こうした公的支援を目的に合わせて活用すれば、自社負担を抑えながら学び直しを進められます。
スキルの棚卸しから、学ぶ文化づくりまで
スキルギャップの特定と育成計画の策定
- 部門ごとに、今後必要となるデジタル・AIスキルを定義する
- 社員個々の習熟度を評価し、求められる水準とのギャップを可視化する
- 個人別・部門別の育成計画に落とし込み、優先順位を付ける
スキルマップやアセスメントを用いて現状と目標の差を見える化すると、研修投資の重点が明確になります。経済産業省「デジタルスキル標準」を共通のものさしとして活用すると、社内外で比較可能な指標を設定できます。
スキルギャップの特定と育成計画の策定では、次の状態になることを目指します。
- 部門ごとに必要スキルの一覧を作成している
- 全社員のスキル習熟度を評価する仕組みがある
- ギャップの大きい領域から育成の優先順位を決めている
学習プラットフォームと公的支援の活用
- 業務に直結する専門コンテンツを備えたプラットフォームを選ぶ
- 短時間で学べるマイクロラーニングに対応したものを選ぶ
- 学習進捗を可視化・管理できる機能を確認する
社内のLMS(学習管理システム)と外部のオンライン講座を組み合わせると、基礎から専門領域まで体系的に学べます。前述の人材開発支援助成金など、公的な助成制度を併用することで、投資効率を高められます。
学習環境の準備ができたと言えるのは、次の条件を満たしたときです。
- 自社の課題に合うコンテンツがそろっている
- 学習履歴と成果を管理・可視化できる
- 活用できる助成金・補助金を確認している
学習文化の醸成と継続的なフォローアップ
- 経営陣が学び直しの重要性を明確に発信する
- 業務時間内に学習時間を確保する(週数時間の確保が望ましい)
- 学んだ成果を発表する機会や評価への反映を設計する
学習を個人任せにせず、組織として時間と機会を用意することが定着の鍵です。学びがキャリアや評価につながると実感できると、自律的な学習が広がります。
学ぶ文化が根づき始めた職場では、次のような様子が見られます。
- 経営層から学習推進のメッセージを発信している
- 業務時間内の学習時間を制度として確保している
- 学習成果を評価や登用に反映する仕組みがある
健康経営に基づく従業員の健康投資プログラム
社員の健康投資がもたらす経営効果
従業員の健康は、生産性と企業価値を支える経営資源です。経済産業省が推進する健康経営優良法人認定制度は年々拡大しており、2026年3月に認定された「健康経営優良法人2026」では、大規模法人部門で3,765法人、中小規模法人部門で23,085法人が認定されました。前年(大規模3,400法人・中小19,796法人)から両部門ともに大幅に増加し、制度開始10回目を迎えています(経済産業省)。
健康経営は、医療費の適正化や欠勤の減少だけでなく、採用力やエンゲージメントの向上にもつながります。優れた取り組みを行う上場企業は「健康経営銘柄」として選定され、投資家からの評価軸にもなっています。健康への投資は、福利厚生にとどまらない戦略的な経営施策へと位置づけが変わっています。
健康課題を数値でつかみ、続けられる仕掛けをつくる
健康リスクの把握と目標設定
- 健康診断やストレスチェックのデータを分析する
- 部署別・年代別の健康課題を特定する
- 数値で測れる健康目標を設定する(例:平均歩数の増加、有所見率の改善)
健康課題を数値で可視化し、改善目標を共有することで、施策の効果を後から検証できます。経済産業省の健康経営度調査の項目を参考にすると、自社の取り組みを客観的に点検できます。
施策の効果を後から検証できるよう、取り組みの前に次の準備を済ませておきます。
- 健診・ストレスチェックの結果を分析している
- 部署別・年代別の課題を把握している
- 測定可能な健康目標を設定している
多様な健康プログラムの提供
- オンライン・オフライン双方の運動機会を用意する
- ウェアラブル機器などで活動量を可視化する
- 栄養・睡眠・メンタルヘルスの支援を組み合わせる
運動だけでなく、食事・睡眠・心の健康まで含めて総合的に支援すると、参加の裾野が広がります。生活習慣の改善は、長期的な医療費の抑制と生産性の維持に寄与します。
プログラムの中身を整える際は、次の点を目安にします。
- 多様な働き方に対応した参加方法を用意している
- 活動量や成果を可視化できる
- メンタルヘルス支援を組み込んでいる
継続的な参加促進策の実施
- 部署対抗の健康イベントなどで楽しみながら続けられる工夫をする
- 健康ポイント制度などのインセンティブを設計する
- 経営層が率先して参加し、行動で示す
健康経営で成果を上げる企業の共通点は、経営トップ自らが参加し、全社的な機運を高めている点にあります。継続の仕掛けづくりが、取り組みを一過性で終わらせないための要です。
参加を一時的な盛り上がりで終わらせないために、次の状態を保ちます。
- 継続を促す仕掛け(イベント・ポイント等)がある
- 経営層が参加し、模範を示している
- 参加率を定期的に測定し、改善している
キャリア自律を促進するキャリア開発プログラム
キャリア開発投資と人材定着率の関係
キャリア成長の機会は、人材定着を左右する最重要要素です。LinkedInの「2025 Workplace Learning Report」によると、従業員が学ぶ最大の動機は「キャリアの前進」であり、回答した組織の88%が人材定着を懸念事項に挙げ、定着策の第1位に学習機会の提供を挙げています。一方で、成果につながる体系的なキャリア開発を実践できている「キャリア開発の先進企業」は全体の約36%にとどまります。
制度面の追い風もあります。2026年3月期以降の有価証券報告書では、経営戦略と関連付けた人材戦略の開示が義務化されます(内閣官房・金融庁・経済産業省)。キャリアパスや育成の方針を明文化し、社外にも示すことが、これからの標準になります。
キャリアの道筋、挑戦の機会、上司との対話
キャリアフレームワークの構築
- 職種別・等級別のスキルマップを作成する
- 管理職と専門職など、複数のキャリアパスを設計する
- 多面的なフィードバックでスキルを評価する仕組みを導入する
専門性を究める道と、マネジメントを担う道を明確に分けて示すと、社員は自分の志向に合わせてキャリアを選べます。選択肢の可視化は、優秀人材の社内定着と内部登用を後押しします。
社員が自分の志向に合った道を選べる職場では、次の土台が整っています。
- 職種別・等級別のスキルマップを整備している
- 複数のキャリアパスを明示している
- 多面的な評価・フィードバックの仕組みがある
多様な学習・成長機会の提供
- メンター制度やコーチングを整備する
- ジョブローテーションやプロジェクト型の経験機会を設ける
- 資格取得や社外学習への支援制度を用意する
座学だけでなく、実務での挑戦機会を計画的に用意することが成長を加速させます。社内公募やプロジェクト参加など、手を挙げれば挑戦できる仕組みは、キャリア自律の土台になります。
学びと成長の機会がそろっているかどうかは、次の点から判断できます。
- メンター・コーチングの体制がある
- 実務での挑戦機会を計画的に用意している
- 資格取得・社外学習への支援がある
定期的なキャリア対話の実施
- 四半期ごとなど、定期的な1on1を実施する
- 年次のキャリア計画づくりを支援する
- 中長期のキャリア目標を上司と共有する
定期的な対話を通じて、上司と部下がキャリアの方向性をすり合わせることが、エンゲージメント向上につながります。1on1を形だけで終わらせず、成長支援の場として機能させることが大切です。
キャリア対話が形だけのものでなければ、次のような状態になっているはずです。
- 定期的な1on1を制度として運用している
- キャリア計画づくりを支援している
- 対話の内容を育成・配置に反映している
柔軟な働き方を支えるワークライフバランス・両立支援プログラム
両立支援と生産性の関係
働き方の柔軟性は、人材の確保・定着と生産性を両立させるための前提条件になりました。2025年4月および10月に段階的に施行された改正育児・介護休業法では、3歳以上小学校就学前の子を養育する労働者が柔軟に働けるよう、事業主に対し、始業時刻等の変更、テレワーク等、保育施設の設置運営等、養育両立支援休暇の付与、短時間勤務制度の中から2つ以上の措置を講じることが義務づけられました(厚生労働省)。
制度整備の効果は数字にも表れています。厚生労働省「令和6年度雇用均等基本調査」によると、男性の育児休業取得率は2024年度に40.5%となり、初めて4割を超えました。前年度の30.1%から10.4ポイントの上昇です。柔軟な働き方の整備は、もはや一部の先進企業の取り組みではなく、すべての企業に求められる経営課題です。
制度の整備に加え、労働時間と休息にも目を配る
柔軟な働き方制度の整備
- フレックスタイムやテレワークなど、場所と時間の柔軟性を高める
- 時間単位の有給休暇や両立支援の休暇制度を導入する
- 改正育児・介護休業法で求められる措置を確実に整える
法改正への対応は最低限の出発点です。自社の実態に合わせて制度を設計し、誰もが利用しやすい運用にすることが、実効性を左右します。
制度が実効性を持つには、次の観点での見直しが欠かせません。
- 柔軟な働き方の選択肢を複数用意している
- 法改正で求められる措置を満たしている
- 制度を利用しやすい運用・周知ができている
労働時間の適正な管理
- 勤務時間を客観的に把握する仕組みを整える
- 長時間労働を防ぐルール(事前申請など)を設ける
- 部署別の労働時間を可視化し、偏りを早期に是正する
労働時間の見える化は、健康管理と生産性向上の両面で効果を発揮します。データに基づいて業務の偏りを把握し、改善につなげることが重要です。
労働時間の管理が機能している職場は、次の状態にあります。
- 労働時間を客観的に把握できている
- 長時間労働を抑制するルールがある
- 部署別の状況を可視化し、是正している
心身のリフレッシュ支援
- マインドフルネスやストレス対策の研修を実施する
- リフレッシュ休暇など、休息を促す制度を設ける
- 相談しやすい環境と窓口を整える
休息と集中のメリハリは、創造性と生産性を高めます。心身を回復させる仕組みを用意することは、長期的な活躍を支える投資です。
心身の回復を支える仕組みが整っているかは、次のことを手がかりに確かめます。
- ストレス対策・研修の機会を用意している
- 休息を促す制度がある
- 相談窓口を整備し、周知している
個別の施策を、人的資本経営のもとで束ねる
ここまで紹介した戦略は、それぞれ独立したものではなく、相互に補完し合うことで最大の効果を発揮します。たとえば、デジタル・AIスキル教育とキャリア開発を連動させれば、社員は学んだスキルをキャリアの前進に結びつけられます。健康投資と柔軟な働き方を組み合わせれば、心身の健康と生産性を同時に高められます。
これらを束ねる考え方が、経済産業省「人材版伊藤レポート2.0」で示された人的資本経営です。人材を「管理すべきコスト」ではなく「価値を生む資本」と捉え、経営戦略と人材戦略を連動させる発想です。
前述のとおり、2026年3月期以降は人材戦略の開示が義務化され、企業の人への投資はますます「見える化」されます。デジタル・AIスキル、健康、キャリア、働き方への投資を個別の施策で終わらせず、人的資本経営という一貫した方針のもとで統合することが、持続的な企業価値の向上につながります。
まとめ:人的資本経営時代の人材投資戦略
変化が常態化した現代において、企業の持続的な成長を実現する鍵は、社員への戦略的な投資にあります。(1)生成AI時代のデジタル・AIスキル教育、(2)健康経営に基づく健康投資、(3)キャリア自律を促すキャリア開発、(4)柔軟な働き方を支える両立支援は、いずれも公的データや制度の裏づけがあり、適切に導入・運用することで企業の競争力強化に大きく貢献します。
重要なのは、これらを自社の課題や文化に合わせてカスタマイズし、導入後も効果測定と改善を続けることです。人的資本の開示が求められる時代だからこそ、施策を「やりっぱなし」にせず、成果につなげる運用が問われます。
WONDERFUL GROWTHでは、人材育成戦略の策定から各種プログラムの導入・運用支援まで、一貫したサポートを提供しています。貴社の成長戦略に合わせた最適な人材投資について、ぜひお気軽にご相談ください。資料のご請求やご相談は、以下よりお問い合わせいただけます。
参考資料:
- 厚生労働省「平成30年版 労働経済の分析」(企業の能力開発費の国際比較)
- 内閣官房・金融庁・経済産業省「人的資本可視化指針の見直しについて」(2025年12月)
- 金融庁「企業内容等の開示に関する内閣府令」改正(2026年3月期以降の人的資本開示拡充)
- 経済産業省「リスキリングを通じたキャリアアップ支援事業」(2025年)
- 厚生労働省「人材開発支援助成金」
- 独立行政法人情報処理推進機構(IPA)「DX動向2025」
- 経済産業省・IPA「デジタルスキル標準」(ver.1.1:2023年8月、ver.1.2:2024年7月、ver.2.0:2026年4月)
- 世界経済フォーラム(WEF)「仕事の未来レポート2025(Future of Jobs Report 2025)」
- 経済産業省「健康経営優良法人2026」認定法人の決定(2026年3月)
- LinkedIn「2025 Workplace Learning Report」
- 厚生労働省「育児・介護休業法 令和6年(2024年)改正」(2025年4月・10月施行)および「令和6年度雇用均等基本調査」(男性の育児休業取得率)
- 経済産業省「人材版伊藤レポート2.0」(人的資本経営)
Editor’s Note
本記事は WONDERFUL GROWTH 編集部が、現場の人事・経営者の方々への取材と 自社支援データを元に作成しています。ご質問・取材のご依頼は お問い合わせフォームよりお気軽にどうぞ。
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