「人材育成は重要だ。しかし今四半期の利益も落とせない」。経営の現場で日常的に交わされる言葉です。資源配分の現実を前にすれば、人材育成は「重要だが、優先順位は二の次」と判断されがちです。
しかし、その判断軸は2026年を境に問い直しを迫られています。
データが映す現実:日本企業の人材投資は、十分とは言えない水準にある
人材投資の絶対水準は、国際的に見て低位で推移している
日本企業の能力開発投資は、長期にわたり国際比較で低水準にとどまっています。経済産業省が整理した先行データでも、日本のGDPに占める企業の能力開発費(OFF-JT)の比率は、米国・欧州主要国に比して突出して低く、しかも経年で低下傾向にあると指摘されてきました。厚生労働省「平成30年版 労働経済の分析」も、この状況が続けば労働者の人的資本が十分に蓄積されず、長期的に労働生産性の向上を阻害する要因となる懸念があると指摘しています。
出典: 経済産業省「人的資本経営の実現に向けた検討会 参考資料」
厚生労働省「令和6年度 能力開発基本調査」では、教育訓練費用を支出した企業の割合は54.9%(前年比+0.3ポイント)。OFF-JTに支出した費用の労働者一人当たり平均額は1.5万円、自己啓発支援は0.4万円という水準にとどまります。1人あたり年間2万円弱の投資で、現場の能力開発が「足りている」と言える事業環境かを、まず冷静に問う必要があります。
「人がいない」ことが、利益そのものを溶かし始めている
帝国データバンクの最新調査(2025年度)によれば、人手不足を主因とする倒産は441件と、年度ベースで初めて400件を突破し、3年連続で過去最多を更新しました。業種別では建設業112件(全体の25.4%)、道路貨物運送業55件、老人福祉事業22件、飲食店21件と、労働集約型産業を中心に深刻化しています。さらに、従業員や経営幹部の退職を起点とする「従業員退職型」倒産は118件と過去最多を記録しました。
出典: 帝国データバンク「人手不足倒産の動向調査(2025年度)」
短期業績を守るための採用拡大は、求人広告費・紹介手数料・初期定着コストを膨らませ、結果として人件費構成を悪化させる構図に陥りやすくなります。「外から採る」だけで現状を維持しようとする経営は、もはや成立しにくい段階に入りました。
短期業績の保全を目的に採用へ資源を寄せれば寄せるほど、定着・育成への投資が削られ、結果として翌期以降の人手不足圧力が増していきます。この逆回転が、今、日本の中堅・中小企業を中心に静かに進行しています。
「事業利益 vs 人材育成」という対立軸そのものが誤っている
多くの経営会議で交わされる「人材育成か、利益か」という問いは、実は問いそのものが不正確です。両者は本来、二項対立ではなく、時間差を伴って同じ財務指標に着地する関係にあります。
人的資本ROIという「同じ会計軸」での再定義
国際的に普及している人的資本ROIは、もっともシンプルな式として「(売上高 − 人件費以外の費用)÷ 人件費」あるいは「営業利益 ÷ 人件費」で算出されます。これは「人件費1円が、いくらの利益を生んだか」を測る指標です。研修費用を単独のコストとして語る限り議論は袋小路に入りますが、人的資本ROIに織り込んで語る瞬間、研修投資は「分母を増やす投資」ではなく「分子を押し上げる仕掛け」として位置づけ直されます。
言い換えれば、人材育成は「コスト計上の問題」ではなく「ROIの分子側を経時的に高めるレバー」であり、利益と対立する性質のものではないということです。
制度変化が「説明責任」の在り処を変えた
2026年3月期以降の有価証券報告書では、企業内容等の開示に関する内閣府令の改正により、人的資本開示の拡充が義務化されました。新たに開示が求められる主要項目は次の3点です。
連結ベースの経営方針・経営戦略等と関連付けた人材戦略
上記人材戦略を踏まえた従業員給与等の決定方針
平均年間給与の前年度比増減率
出典: デロイト トーマツ「人的資本開示 2026 府令改正・指針改訂の解説」
これまでは社内議論で完結し得た「人材育成への投資判断」が、開示書類を通じて投資家・金融機関・取引先の評価対象に組み込まれる段階に入りました。経営戦略との連動を欠いた人材投資は、開示の場で「説明できない投資」として可視化されます。
育成不足は「離職コスト」として直接利益を毀損する
育成投資を抑えた結果として中堅人材の離職が増えた場合、企業は採用コスト・引継ぎコスト・既存社員の負荷増・採用後の立ち上がり遅延を同時に負担します。前出の帝国データバンク調査が示す「従業員退職型」倒産118件は、その極端な発現形態に過ぎません。育成を削るほど離職リスクが上がり、離職コストが利益を直接削っていく構造を、経営層は数字でつかんでおく必要があります。
2026年の制度変化が、経営判断を不可逆に変える
「義務化された開示」の射程は、想定より広い
2026年2月20日に公布された内閣府令等の改正により、2026年3月期以降の有価証券報告書から人的資本開示が一段拡充されます。さらに2027年3月期以降は、プライム市場上場企業を対象に、平均時価総額3兆円以上の企業からSSBJ基準による開示が段階的に義務付けられます(1兆円以上は2028年3月期以降。デロイト トーマツ「人的資本開示 2026 府令改正・指針改訂の解説」)。
出典: 大和総研「人的資本可視化指針改訂で期待される経営戦略と人材戦略の深化」
未上場企業や中堅企業にとっても、取引先のサプライチェーン開示要請、金融機関の事業性評価、人的資本関連の認証制度を通じて、間接的に同等の説明責任が及び始めています。「開示は上場企業の話」と切り分けて済む段階を、すでに過ぎつつあります。
投資家は「数値」ではなく「経営戦略との接続」を見にきている
内閣官房・金融庁・経済産業省が、1月の改訂案を経て2026年3月に公表した人的資本可視化指針の改訂版は、平均値の単純な羅列ではなく、経営戦略と人材戦略の連動を中心に据えた開示を促す内容となっています。研修時間や有給取得率といった単独指標を並べるだけでは、開示の趣旨を満たさない方向へ舵が切られたと理解すべきです。
出典: 日本経済新聞「人的資本の企業開示『経営戦略と連動を』」
人的資本ROIを共通言語にし、離職コストを金額で示す
人的資本ROIを「経営会議の共通言語」に据え直す
まずは指標を一本化します。営業利益 ÷ 人件費を四半期で時系列化し、過去3〜5年の推移を経営会議の固定議題に組み込みます。原価管理や営業会議と同じ粒度で扱うことが目的です。
直近3年分の「営業利益 ÷ 人件費」を時系列で算出し、経営会議の定例レポートに正式に組み込んでいれば、指標の一本化は済んでいます。
あわせて、指標が悪化したときや改善したときに、その要因を人事領域の打ち手と紐づけて議論できる体制を整えます。人事責任者が経営会議に常時参加していることは、その体制の一例です。
「離職コスト」を金額化して、育成投資と同じ俎上に載せる
育成投資の議論を有利に進めるために、対になる「離職コスト」を金額で可視化します。代表的な内訳は、採用関連費(広告・紹介手数料)、教育・立ち上がり期間中の機会損失、引継ぎに伴う既存社員の生産性低下、未充足ポジションの売上機会損失です。
中核ポジションの社員が1名離職したときの総コストを、自社の実数で試算したシミュレーションを用意しておくと、育成投資と金額で比べられるようになります。
離職コストの試算と育成投資額を同一スライド上で比較した資料が経営会議で共有されていることが、この段階を終えた目安です。
戦略との接続が見える人材戦略マップを作成する
2026年の人的資本可視化指針が求めるのは、研修時間や離職率の単独表示ではなく、経営戦略と人材戦略の連動構造です。「3〜5年の経営戦略」と「必要となる主要能力(リスキリング対象を含む)」「育成投資・採用配分・処遇方針」を一枚で接続させたマップを整備します。
経営戦略から必要能力、そして育成・採用・処遇へと続く連動を一枚の図で説明できれば、人材戦略マップは完成です。
完成したマップは、取締役会(または経営会議)で毎年レビューします。
育成投資の「分子効果」を、業績KPIに接続して測る
研修を「実施した/していない」ではなく、研修によって変化した行動指標と業績KPIを2層で測ります。たとえば、管理職研修であれば、研修後3〜6か月の1on1実施率、エンゲージメントスコア、当該部門の離職率、最終的に売上総利益への寄与を段階的に追跡します。
主要な研修ごとに、行動指標と業績KPIをセットで設定した効果測定を設計しておくと、研修の成果を業績と結びつけて説明できます。
効果測定の結果が次年度の育成予算配分に反映されず、予算を増減する根拠として使われていないなら、測定と予算を結ぶ仕組みはまだ回っていません。
助成金・税制を「採用シフトの再分配」原資として戦略的に活用する
人材開発支援助成金や賃上げ促進税制を、単なるコスト回収手段としてではなく、「過剰な採用予算を育成投資へシフトする原資」として再定義します。短期業績への影響を抑えながら、人的資本投資の構造的拡大が可能になります。
人事と経理の双方が、直近年度に活用できる助成金・税制の要件と上限額を把握していれば、育成に回せる原資を見積もれます。
採用予算と育成予算の比率については、3年計画として目標値を明文化します。
まとめ:問いを「優先順位」から「再配分」へと立て直す
「事業利益よりも人材育成は優先されるのか?」。この問いは、立て方そのものを変える必要があります。正しい問いは、次のように再構築されます。
当社の人的資本ROIを、向こう3年でどの水準まで引き上げるか。そのために、採用・育成・処遇への資源配分を、いつ、どのように再設計するか。
利益と人材育成は対立しません。対立しているように見えるのは、議論の俎上にある会計軸が片方だけで、もう片方が抽象的な「べき論」のまま残されているからです。両者を同じROIの分母・分子の関係として捉え直した瞬間、経営の論点は「優先順位」から「再配分の設計」へと移ります。
2026年は、その再設計を制度面からも、人手不足という現実面からも、避けにくくなった節目の年です。短期業績を守りながら、人的資本の蓄積で次期以降の収益基盤を厚くすることは、もはや理想論ではなく、設計次第で十分に到達可能な経営の現実解です。
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参考にした主な公的調査・資料
厚生労働省「令和6年度 能力開発基本調査」(2025年公表)
帝国データバンク「人手不足倒産の動向調査(2025年度)」(2026年4月公表)
内閣官房・金融庁・経済産業省「人的資本可視化指針(改訂版)」(2026年3月公表)
内閣府令等の改正による人的資本開示拡充(2026年2月20日公布)
日本生産性本部「労働生産性の国際比較 2024」
経済産業省「人的資本経営の実現に向けた検討会」関連資料
Editor’s Note
本記事は WONDERFUL GROWTH 編集部が、現場の人事・経営者の方々への取材と 自社支援データを元に作成しています。ご質問・取材のご依頼は お問い合わせフォームよりお気軽にどうぞ。
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