サプライチェーン全体での人権尊重を、人を育てる仕組みに変える実務ガイド
「人権デューデリジェンス」という言葉に、現場の人事担当者として正面から向き合っているという企業は、まだ多くありません。PwC Japanグループが2025年に実施した国内主要企業向けの意識調査では、人権デューデリジェンスを「実施していない」と回答した企業が56.2%にのぼり、過半数を占めました。未実施の理由として最も多く挙げられたのは「リソース不足」(43.0%)であり、続いて「実施方法がわからない」「優先順位が高くない」が並びます。
一方で、EUの企業サステナビリティ・デューディリジェンス指令(CSDDD)は2024年7月に発効し、2027年7月から大企業を皮切りに順次適用が始まります。PwCの試算では、EU域内売上が一定規模を超える日本企業約120社が直接の適用対象となる見込みであり、間接的な情報提供要請まで含めれば、影響範囲は中堅企業にまで広がっています。
つまり、人権デューデリジェンスは、もはや一部のグローバル企業だけの課題ではありません。そして本記事の主題でもあるとおり、この取組みを実効性のあるものにするうえで、人材育成は欠かせない柱です。本稿では、人事担当者・経営層が押さえるべき制度動向の要点と、それを自社の人材育成にどう接続するかを、5つのステップに分けて整理します。
1.いま、人権デューデリジェンスが問われている背景
国際合意と日本国内ガイドラインの流れ
人権デューデリジェンスの土台となっているのは、2011年に国連人権理事会で全会一致で支持された「ビジネスと人権に関する指導原則」です。この指導原則は、人権に関する「国家の保護義務」「企業の尊重責任」「救済へのアクセス」という3つの柱を示しています。企業の責任を定めた第二の柱では、企業に対し、人権への負の影響を特定し、防止・軽減し、対処することが求められています。
日本では、この国際的枠組みを受け、2020年に「ビジネスと人権」に関する行動計画(NAP)が策定されました。さらに2022年9月、関係府省庁連絡会議のもとで経済産業省が中心となって「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を策定し、2023年4月には「実務参照資料」が公表されています。ガイドラインは、企業規模や業種を問わず、すべての日本企業に対して人権尊重の取組みを呼びかけるものです。
出典 「ビジネスと人権に関する指導原則」(外務省訳)、経済産業省「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」(令和4年9月)および「実務参照資料」(令和5年4月)。
CSDDDによる外圧と、日本企業への波及
EUのCSDDDは、EU域内に一定規模以上の事業を持つ企業に対し、自社のみならず子会社やビジネスパートナー(活動の連鎖)に至るまでの人権・環境リスクのデューデリジェンスを義務付ける指令です。EU域外企業であっても、EU域内の年間純売上高が4.5億ユーロを超える場合は対象となり得ます。
直接の対象でない中堅・中小企業も、無関係ではありません。CSDDDを遵守する義務を負うEU企業と取引する場合、サプライチェーンを通じて自社の人権リスク管理状況の説明を求められる可能性が高まります。現場感覚で言えば、「取引先からの監査票が、ある日突然、人権項目を含んで送られてくる」事態が現実化しているということです。
「やっている」と「できている」の差
前述のPwC調査では、人権尊重に取り組んでいる企業は全体の約4割でしたが、その中身を見ると、「人権方針の策定」74.5%、「苦情処理体制の整備」65.0%、「組織体制の構築」56.4%と、いずれも初期段階の整備に集中しています。サプライチェーン全体の負の影響を特定・評価し、是正し、モニタリングする「本来の意味でのデューデリジェンス」にまで踏み込んでいる企業は、依然として少数です。
この差を生んでいる最大の要因が、「自社の現場が、人権リスクを業務の文脈で見抜ける状態になっていないこと」、すなわち人材の問題です。
2.人権デューデリジェンスの4ステップと、人材育成の接点
経済産業省のガイドラインおよび実務参照資料では、人権デューデリジェンスの取組みを、人権方針の策定を起点として4つのプロセスに整理しています。ここでは、それぞれのステップにおいて人材育成がどのような役割を担うのかを表形式で対応づけます。
人権DDのステップ | ガイドラインで求められる主な活動 | 人材育成として果たすべき役割 |
|---|---|---|
①負の影響の特定・評価 | 自社・子会社・取引先における人権侵害リスクを洗い出し、深刻度と発生可能性で優先順位を付ける | 現場が「これは人権課題である」と気付ける感度を養うこと。職場のハラスメント、外国人技能実習生の労働環境、調達先の児童労働などを業務の文脈で見抜けるようにする |
②負の影響の予防・軽減 | 教育・研修の実施、社内制度の整備、契約条項の見直し、調達ルールの改訂などを通じて、特定されたリスクの未然防止と軽減を図る | 管理職層が、自部署のリスクを部下と一緒に潰し込めるリーダーシップを身に付けること。研修は単発で終わらせず、業務プロセスへ組み込む |
③取組みの実効性の評価(モニタリング) | KPIや内部監査、内部通報の状況などをもとに、取組みが機能しているかを定期的に検証する | 数値で見るだけでなく、現場の対話を通じて潜在的な兆候を拾えるラインマネジメント層を育てる |
④情報の開示 | 取組みの内容と結果について、ステークホルダーに向けて分かりやすく開示する | 「自社が何をしているか」を自分の言葉で語れる人材(管理職、広報、サステナビリティ担当)を育成する |
この対応関係から見えてくるのは、人権デューデリジェンスは「方針を作って終わり」ではなく、現場で動く一人ひとりの判断力に支えられて初めて機能する、極めて人材育成的な取組みだということです。
3.自社で進める実践5ステップ
ここからは、人事担当者および経営層が自社の人材育成と人権デューデリジェンスを統合していくための5つのステップを、それぞれの「実施チェック」とあわせて示します。
ステップ1.経営層の合意形成と方針策定
最初のステップは、経営層が「人権尊重を経営課題として位置付ける」と内外に宣言することです。現場の取組みが続かない企業の多くは、この第一歩を曖昧にしたまま、研修や監査だけを先行させてしまっています。
策定にあたっては、国連指導原則と経済産業省ガイドラインを根拠として参照し、自社の事業活動に即した重点領域(労働環境、調達、地域社会、技術・データなど)を絞り込みます。方針を社外公表する前に、取締役会と主要部門長で「自分たちの言葉で説明できる」状態にしておくことが要諦です。
実施チェック:取締役会の決議または同等の合意形成プロセスを経ているか
実施チェック:自社のサプライチェーンの構造を踏まえた重点領域が方針に明記されているか
実施チェック:方針が日本語と必要な多言語で社内外に公開されているか
ステップ2.リスクマップの作成と現場ヒアリング
次のステップは、自社・子会社・取引先における人権リスクの所在を可視化することです。ここでよくある失敗は、本社のサステナビリティ部門だけで机上の整理を進めてしまうことです。現場と取引先のリアリティを欠いたリスクマップは、書類審査では通っても、実態の予防にはつながりません。
現場ヒアリングは、「困りごとを聞き出す」スタイルで行うのが効果的です。「人権リスクを教えてください」と問えば沈黙が返ってきますが、「ここ1年で、外国人スタッフから困ったと相談されたことはありますか」「下請けの工程で、見て見ぬふりをしている残業はありませんか」と具体的に問えば、現場は語り始めます。
実施チェック:自社事業の主要工程ごとに、想定される人権リスクを一覧化したか
実施チェック:直接取引先(Tier1)に加え、可能な範囲で2次・3次取引先までを視野に入れたか
実施チェック:現場で長く働いている社員と非正規・外国人スタッフの双方にヒアリングしたか
ステップ3.階層別の人権研修プログラムを設計する
ステップ3は、本稿の中心的なテーマです。経済産業省のガイドラインも、ステップ②「予防・軽減」の代表的な施策として教育・研修を挙げています。ただし、全社員に同じeラーニングを一律に受講させるだけでは、行動変容には届きません。次のように、階層に応じて狙いと到達目標を変えて設計することが重要です。
対象階層 | 到達目標 | プログラム例 |
|---|---|---|
経営層・役員 | 自社にとっての人権リスクの全体像を語り、意思決定の場で人権を論点に組み込めるようになる | 国際的潮流のブリーフィング、シナリオプランニング演習、外部取締役・社外有識者との対話 |
管理職 | 自部署の業務とリスクの接点を整理し、メンバーの懸念を吸い上げて対応できるようになる | ケーススタディ討議、自部署のリスクマップ作成ワーク、面談ロールプレイ |
一般社員 | 日々の業務の中で「これは人権に関わる事象だ」と気付き、適切な相談先につなげられるようになる | eラーニング(基礎知識)、業界別の事例集、相談窓口の活用シミュレーション |
調達・人事担当 | 取引先・候補者対応の実務に人権基準を組み込み、契約・採用プロセスを運用できるようになる | 人権DDの実務研修、取引先アセスメント演習、採用面接における留意点トレーニング |
また、既存のハラスメント防止研修やコンプライアンス研修、ダイバーシティ研修と一体化させ、「人権」を独立した負担としてではなく、自社の人材育成体系の上位概念として再定義することで、現場の受容度は大きく高まります。
実施チェック:階層ごとに到達目標を文書化したか
実施チェック:既存の研修体系との重複を整理し、統合または接続したか
実施チェック:研修後3か月以内に行動レベルでの変化を確認する仕組みを用意したか
ステップ4.苦情処理メカニズムと現場対話の仕組みを整える
国連指導原則の第3の柱「救済へのアクセス」を実現するためには、被害を受けた当事者がアクセスしやすく、報復を恐れずに利用できる苦情処理メカニズムが必要です。PwC調査で実施率が高かった「苦情処理体制整備」(65.0%)は、形式だけが整っても、使われなければ意味がありません。
ここでは、社内通報窓口だけでなく、取引先や地域社会からのアクセス経路を整え、結果のフィードバックまでを設計することがポイントです。そのうえで、ライン管理職が「相談しても大丈夫だ」と感じられる関係性を日々の対話で築けるよう、1on1や面談スキルを高める育成施策が重要になります。
実施チェック:複数のアクセス経路(電話、Webフォーム、外部窓口、多言語対応)を整備したか
実施チェック:通報者の保護と、報復禁止が方針に明記されているか
実施チェック:管理職の傾聴・面談スキルを継続的に育成しているか
ステップ5.モニタリングと開示、そして人材戦略への反映
ステップ5は、人権デューデリジェンスを「やりっぱなし」にしないための仕組みづくりです。実効性の評価は、KPI(通報件数、是正完了件数、研修受講後の理解度等)と、定性的な現場ヒアリングを組み合わせて行います。そのうえで、結果を統合報告書や有価証券報告書、サステナビリティレポートなどで開示し、ステークホルダーとの対話に活かします。
重要なのは、ここで得られた気付きを、次年度の人材育成計画と評価制度に必ず反映することです。「現場の管理職が人権リスクを察知できなかった」という結果が出たのであれば、管理職育成の到達目標を見直し、評価指標に組み込む。「調達担当が取引先アセスメントを形骸化させていた」のであれば、配置と研修を再設計する。こうして、人権デューデリジェンスを人事制度の中に組み込んでいくことが、本当の意味での内製化です。
実施チェック:KPIと定性データを組み合わせて評価しているか
実施チェック:評価結果を翌年度の研修計画に反映する仕組みがあるか
実施チェック:開示は事実を平易な言葉で書き、リスク事例も含めて記述しているか
4.現場で出やすい3つの誤解と、その解きほぐし方
誤解1.「うちは国内取引中心だから関係ない」
国内取引が中心であっても、外国人技能実習生や特定技能労働者の受け入れ、ハラスメント、長時間労働、下請取引上の優越的地位の濫用など、人権課題は国内の労働現場にも存在します。また、間接的にでもEU市場や米国市場とつながる取引先を持つ場合、サプライチェーンの一部として説明責任を負う可能性があります。
誤解2.「方針を作れば取組みは完了する」
PwC調査でも明らかなとおり、方針策定は出発点に過ぎません。実際に成果が出るのは、「方針が現場の判断と行動に反映され、リスクが事前に潰される状態」が継続的に再生産されたときです。そのために、人材育成と評価制度を方針と連動させる必要があります。
誤解3.「人権研修は一度受ければ十分である」
人権を取り巻く論点は、年々アップデートされています。AIによる採用選考、生成AIの利用、リモートワーク下のメンタルヘルス、サプライチェーンの脱炭素化と労働者保護の関係など、新しい論点が次々に登場しています。研修は定期的に内容を見直し、最新の事例を盛り込み続ける必要があります。
5.まとめ:人を育てることが、最良のリスク管理になる
人権デューデリジェンスは、外圧によって生まれた負担ではなく、人を大切にする経営を進化させる機会です。国際合意と国内ガイドライン、EUのCSDDDといった枠組みは、企業が当然備えるべき品位の水準を、社会全体で底上げしようとする動きにほかなりません。
そして本稿で見てきたとおり、その取組みを実効性のあるものにする鍵は、現場で判断する一人ひとりの感度と、それを支える人材育成の仕組みにあります。方針や監査ばかりに偏らず、人を育てる視点を中心に据えることが、結果的に最も持続的で、最もコスト効率の高いリスク管理につながります。
貴社の現場で、いま、どのステップが手薄になっているでしょうか。経営層の合意形成か、リスクマップか、研修プログラムか、苦情処理か、モニタリングか。本稿のチェックリストを使って、今週中に一度だけでも、自社の現状を棚卸ししていただければ幸いです。
参考・出典
・外務省「ビジネスと人権に関する指導原則:国際連合『保護、尊重及び救済』枠組実施のために(仮訳)」 外務省PDF
・経済産業省「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」(令和4年9月) 経済産業省 公表ページ
・経済産業省「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のための実務参照資料」(令和5年4月) 経済産業省 公表ページ
・PwC Japanグループ「CSDDDに関する日本企業の課題意識調査」(2025年) PwC Japanグループ
・ジェトロ「EUで人権デューディリジェンス義務化(1)日本企業の対応は?」(2025年) JETRO
・厚生労働省「ビジネスと人権~責任あるグローバル・サプライチェーンに向けて~」 厚生労働省
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Editor’s Note
本記事は WONDERFUL GROWTH 編集部が、現場の人事・経営者の方々への取材と 自社支援データを元に作成しています。
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