8割の企業が「育成の壁」に直面している
厚生労働省「令和6年度 能力開発基本調査」によると、能力開発や人材育成に何らかの問題があると回答した事業所は79.9%にのぼります。問題点として最も多かったのは「指導する人材が不足している」で、次いで「人材育成を行う時間がない」「育成しても辞めてしまう」が挙げられました。多くの組織が、育てたい気持ちはありながら、その方法に手応えを得られずにいる様子がうかがえます。
従業員の意欲という観点でも、課題は深刻です。米国ギャラップ社の調査「State of the Global Workplace(2024年版)」では、仕事に熱意を持って取り組む「エンゲージメントの高い社員」の割合が、日本ではわずか6%でした。世界平均の23%、東アジア平均の18%と比べても低い水準です。
研修の回数を増やし、制度を整えても育成の手応えが得られないのは、「人がどのように動き、学び、成長するのか」という心理学の視点が、育成の設計に組み込まれていないからです。
なぜ人材育成に心理学の視点が必要なのか
人材育成は、突き詰めれば「人の行動が変わること」を目指す営みです。知識を伝えるだけでは行動は変わりません。学んだことが定着し、本人が自ら動き出して初めて、育成は成果につながります。
心理学は、この「行動が変わる仕組み」を長年にわたって研究してきた学問です。どうすれば人は意欲を持つのか、学んだことをどう記憶に残すのか、何が挑戦を後押しするのか。これらの問いに対する知見を育成に取り入れることで、「なんとなく良さそうな研修」から「人が変わる根拠のある育成」へと近づけることができます。
以下では、人材育成に直接活かせる心理学の知見を、「動機づけ」「学習」「成長を支える環境」の三つの観点から整理します。
動機づけの心理学 ― 人はなぜ動くのか
内発的動機づけを引き出す「自己決定理論」
エドワード・デシとリチャード・ライアンが提唱した自己決定理論では、人の意欲を高める要素として、次の三つが重要だとされています。
- 自律性 ― 自分で選んで取り組んでいるという感覚
- 有能感 ― できる、前進しているという手応え
- 関係性 ― 周囲の人とつながっているという安心感
報酬や罰といった外側からの刺激(外発的動機づけ)だけに頼ると、その刺激がなくなった途端に意欲は失われがちです。一方、この三つの要素が満たされると、人は自ら学び、工夫し、行動を続けるようになります。育成においては、一律に課題を与えるのではなく、本人に選択の余地を残し、小さな成功体験を積み重ねさせ、孤立させない関わりを設計することが鍵になります。
「満足」と「不満」は別物 ― 二要因理論
フレデリック・ハーズバーグの二要因理論は、仕事の満足につながる要因(達成、承認、仕事そのものの面白さなど)と、不満につながる要因(給与、労働条件、人間関係など)は別物だと指摘しました。給与や環境を改善しても、それは不満を減らすだけで、必ずしも前向きな意欲にはつながりません。人が本当に意欲を持つのは、成長を実感し、自分の仕事が認められたときです。育成の場面では、待遇の改善だけでなく、「達成」と「承認」の機会をどう設計するかが問われます。
学習の心理学 ― どうすれば身につくのか
経験から学ぶサイクルを回す
デイビッド・コルブの経験学習モデルでは、人は「経験する→振り返る→法則を見いだす→次に試す」というサイクルを通じて深く学ぶとされています。研修で知識を受け取るだけでは、この循環は完結しません。実務での経験と、それを振り返る機会をセットで用意することが重要です。
多くの企業が参考にする「70:20:10の法則」も、人の成長の7割は実務経験、2割は他者からの助言や観察、1割は研修によるという経験則を示しています。研修はきっかけにすぎず、現場での経験と内省が育成の中心であることを忘れてはなりません。
忘却を前提に設計する
ヘルマン・エビングハウスの忘却曲線が示すように、人は学んだことを時間とともに急速に忘れます。一度の研修で完結させようとすると、その効果の多くは数日のうちに失われてしまいます。これを防ぐのが、時間を置いて繰り返し思い出す「間隔反復」の考え方です。研修の後に短い振り返りやフォローアップを複数回挟むことで、記憶は定着し、行動として根づきやすくなります。
成長を支える環境の心理学
「やればできる」を育てる成長マインドセット
キャロル・ドゥエックが提唱した成長マインドセットとは、「能力は努力や経験によって伸ばせる」という信念です。これに対し、「能力は生まれつき決まっている」と考える固定マインドセットの状態では、人は失敗を恐れ、挑戦を避けるようになります。育成においては、結果だけをほめるのではなく、努力や工夫の過程に目を向けて伝えることが、成長マインドセットを育てます。「よくできた」ではなく「ここを工夫したのが良かった」という伝え方が、次の挑戦を後押しします。
挑戦を可能にする「心理的安全性」
ハーバード大学のエイミー・エドモンドソンが提唱した心理的安全性とは、「率直に意見を言っても、質問しても、失敗しても、罰せられたり馬鹿にされたりしない」とメンバーが感じられる状態を指します。グーグルが自社のチームを分析した研究(プロジェクト・アリストテレス)でも、成果の高いチームに共通する最大の要因として心理的安全性が挙げられました。
人は安心できる環境でこそ、わからないことを質問し、新しいことに挑戦できます。育成の効果を高めたいのであれば、個人のスキルを磨く前に、失敗を学びに変えられる場の空気をつくることが欠かせません。
心理学を活かす人材育成の5ステップ
ここまでの知見を、現場で実践できる手順に落とし込みます。各ステップに「実施チェック」を添えますので、自社の育成を見直す手がかりとしてご活用ください。
ステップ1:育成のゴールを「行動」で定義する
「リーダーシップを高める」といった曖昧な目標ではなく、「会議で自分の意見を述べ、メンバーに役割を割り振れる」のように、観察できる行動でゴールを描きます。行動で定義することで、本人も周囲も達成の度合いを確認できます。
- 実施チェック:育成目標が、第三者が見て達成を判断できる、具体的な行動の言葉で書かれているか。
ステップ2:本人に選択の余地を残す
自己決定理論の「自律性」を踏まえ、学ぶ内容や進め方に本人の意思を反映させます。与えられた課題よりも、自ら選んだ課題のほうが意欲は続きます。
- 実施チェック:育成計画の中に、本人が選択・決定できる余地が一つ以上組み込まれているか。
ステップ3:経験と振り返りをセットで設計する
研修や座学だけで終わらせず、実務で試す機会と、それを振り返る場を必ず用意します。経験学習のサイクルを回すことが、定着への近道です。
- 実施チェック:インプット(研修)に対して、実践の機会と振り返りの場が対になって用意されているか。
ステップ4:過程を承認し、間隔を置いて繰り返す
結果だけでなく、努力や工夫の過程を具体的に認め、忘却曲線を踏まえて複数回のフォローアップを挟みます。承認は意欲を支え、反復は記憶を支えます。
- 実施チェック:育成期間中に、過程への承認とフォローアップの機会が複数回設けられているか。
ステップ5:安心して挑戦できる場をつくる
質問や失敗を責めず、学びの材料として扱う関わりを、育成に関わる全員で共有します。心理的安全性は、ここまでの四つのステップすべての土台となります。
- 実施チェック:失敗やわからないことを率直に言える雰囲気が、チーム内で保たれているか。
まとめ ― 「気合い」から「科学」へ
人材育成がうまくいかないとき、私たちはつい、本人の資質や指導者の熱意の問題として捉えがちです。しかし、人がどう動き、学び、成長するのかには、心理学が積み重ねてきた一定の法則があります。
動機づけの三要素を満たし、経験と振り返りで学びを定着させ、成長マインドセットと心理的安全性で挑戦を支える。こうした科学的な視点を育成に組み込むことで、育成は「気合い」や「運」に頼るものから、再現性のある仕組みへと変わります。まずは自社の育成を、本記事の5ステップに照らして見直すことから始めてみてはいかがでしょうか。
研修・人材育成のご相談について
WONDERFUL GROWTHでは、心理学や行動科学の知見にもとづく研修・人材育成プログラムをご提供しています。自社の課題に合わせた育成設計について、まずは資料をご覧ください。
出典
- 厚生労働省「令和6年度 能力開発基本調査」結果の概要
- Gallup「State of the Global Workplace 2024」
- 自己決定理論(Deci & Ryan)/二要因理論(Herzberg)
- 経験学習モデル(Kolb)/忘却曲線(Ebbinghaus)
- 成長マインドセット(Dweck)/心理的安全性(Edmondson、Google: Project Aristotle)
Editor’s Note
本記事は WONDERFUL GROWTH 編集部が、現場の人事・経営者の方々への取材と 自社支援データを元に作成しています。
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